野球部の歴史
昭和期 戦後編②
昭和三十八年~六十三年
大月時代から連続出場・最多出場まで
この時期は比較的短い間に監督の交代があり、部員の数も増えて
昭和三十八年、大月吉史監督が就任した。昭和三十九年、四年ぶり十六回目の甲子園出場を果たし、1回戦千葉商と対戦し、長野県勢初の升田俊秀が柵越え本塁打を放って校歌が流れた。昭和四十二年には早鞆と対戦し再び勝利の喜びを味わった。
昭和四十三年、中原英孝が就任した。四十四年夏の甲子園1回戦で三笠と対戦し、降旗英行投手はノーヒットノーランを達成した。四十七年には選抜十二回出場し、最多出場を記録した。
昭和四十八年、望月登が監督に就任した。強いとは言われなかったチームだったが、部長の高沢和夫とともに熱心に指導に当たり、全盛期といわれた丸子実に決勝で惜敗した。
昭和四十九年には唐木裕が監督に就任した。夏の県大会準決勝で丸子実に敗れ、騒然とした状態の中で球場を去った。
昭和五十年、池田政雄監督が就任すると、その年から六年連続甲子園出場を果たし、胡桃沢監督の五年連続の記録を更新したが、東海大相模・PL・福井商・天理・池田・高知商と初戦で強豪と当たり、甲子園で校歌を聞くことはできなかった。昭和五十三年には松本を主会場に長野国体(やまびこ国体)が開催され、地元校として出場を果たした。
昭和五十八年には小尾淳美監督が就任した。六十年、十三年ぶりに春の選抜大会に出場し、1回戦国学院久我山を破った。その年の明治神宮大会に初優勝を遂げた。六十一年には二年連続春の選抜に出場し、1回戦東海大山形を破り、夏も六年ぶりの出場を果たした。
昭和六十三年九月、中原英孝監督が再登板し、平成の活躍に続く努力が続いた。
昭和期 戦後編Ⅱ 昭和38年(1963)~63年(1988)
・38年(1963)
8月、第45回全国高校野球選手権大会4年ぶり16回目の出場で最多出場校となった。初戦京都商を3-2破ったが、下関商に0-5で敗れた。
・39年(1964)
8月、第46回全国高校野球選手権大会に2年連続17回目の出場を果たし、千葉商に6-0の快勝。この試合升田俊秀は県勢初のスタンドイン本塁打。2回戦岐阜商に2-5で敗れた。
・42年(1967)
8月、第49回全国高校野球選手権大会に3年ぶり18回目の出場をし、早鞆に3-0で快勝。2回戦は宿敵広陵に0-2で敗れた。
この大会では夜間宿舎の近くの電柱や樹木にいくつものラジオが架けられ、大音量の音声が流れて選手の安眠を妨げ、警察が出動する「トランジスター事件」があった。
・44年(1969)
8月、第51回全国高校野球選手権大会に2年ぶり19回目の出場を果たし、1回戦三笠に14-0で勝ち、降旗英行投手は11年ぶり16人目のノーヒットノーラン達成。2回戦は玉島商に1-9で敗れた。
・47年(1972)
3月、第44回選抜高校野球大会に13年ぶり12回目の最多出場。1回戦高知商に1-2で惜敗。
・50年(1975)
8月、第57回全国高校野球選手権大会に6年ぶり20回目の出場を果たし、優勝候補筆頭の東海大相模に3-5と善戦。
・51年(1976)
8月、第58回全国高校野球選手権大会に2年連続21回目の出場。PL学園に0-1で惜敗。
・52年(1977)
8月、第59回全国高校野球選手権大会に3年連続22回目の出場で最多出場。福井商に0-7で敗れた。
・53年(1978)
8月、第60回全国高校野球選手権記念大会に4年連続23回目の出場。天理に0-6で敗れた。
10月、第33回国民体育大会(やまびこ国体)高校野球競技に出場し、仙台育英に3-9で敗れた。
・54年(1979)
8月、第61回全国高校野球選手権大会5年連続24回目の全国最多出場。蔦文也監督率いる池田に2-9で敗れた。
・55年(1980)
8月、第62回全国高校野球選手権大会6年連続25回目の出場。高知商に0-2で敗れた。
・59年(1984)
11月、第15回明治神宮野球大会に出場し、徳島商、弘前工を破ったが、決勝で国学院久我山に1-10で敗れて準優勝。
・60年(1985)
3月、第57回全国選抜高校野球大会に出場。国学院久我山に4-2で雪辱。2回戦西条には1-2で惜敗。
11月、第16回明治神宮野球大会に2年連続出場し、決勝で帝京を12-4で破り初優勝。
・61年(1986)
3月、第58回選抜高校野球大会に2年連続14回目の出場で、1回戦東海大山形に7-1で快勝。2回戦上宮に0-6で敗れた。
8月、第68回全国高校野球選手権大会に6年ぶり26回目、春夏連続出場。鹿児島商に4-8で敗れた。
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